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『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』


川成洋

ベラスケス 宮廷のなかの革命者
大高 保二郎 著

岩波書店
■2018年5月刊
■定価960円+税

 畢生の大作《ラス・メニーナス》を描いたベラスケスが生きた17世紀スペインとはどのような国だったのか。飢饉とペストの襲来、絶え間ない対外戦争、国内では暴動・叛乱・革命の群発、新大陸貿易を含む経済活動の停滞、数回におよぶ破産宣言など「17世紀の危機」と云われる状況であった。ちなみに、17世紀ヨーロッパにおいて「30年戦争」を嚆矢として、1年中戦争のなかった年はわずか7年のみ。スペインとて例外ではなく、フェリペ4世の「寵臣」オリバーレス伯公爵が推進した「陽の沈むことなき大帝国」の再建は当時「邯鄲の夢」に過ぎなかった。

 1623年、18歳の国王フェリペ4世によって弱冠24歳で宮廷画家に抜擢されたベラスケスは、その後、勅令によリ、私室取次係(27年)、王室衣裳係代(36年)、王室侍従代(43年)、王室配室係(52年)、次いで王室配室長に任じられた。こうして彼は宮廷画家と廷臣の階梯を登りつめたものの、なぜか公文書類には自分の職名に廷臣の方を記入し、周囲からもそう呼ばれていた。ベラスケスが描いた国王の肖像画は、いずれもスペイン帝国の頂点に君臨する者としての威厳に満ち、堂々としているが、どうも彼の肖像画には何らかの作意が働いているのではないかと勘繰りたくなる。実際のところ、フェリペ4世は統治者としては無気力で無能、放埓な生活を懲りずに繰り返す色魔、文芸擁護者・愛好者という点では詩人、金に糸目をつけない美術収集家、愛の遍歴ごとに罪の意識にかられ胸を静かに軽く打つ敬虔なカトリック教徒だからである。

「寵臣政治」が惹起してきた権謀術策うずまく宮廷の真っ只中で、ベラスケスはどう生きたのか。

  本書によると、封建的な宮廷社会では、手を汚す職業である画家を自ら公言するのは憚られることだった。それゆえ、ベラスケスは黙々と絵を描き、あるいは廷臣としての責務をひたすら果たし、宮廷においては異常なまでの沈黙を守り慎重に生きていた。そして56年、激務の合間を縫って、スペイン絵画史上初の王家の集団肖像画《フェリペ4世の家族》、愛称《ラス・メニーナス》を描いた。縦318cm×横276cmの大きいキャンバスに描かれているほぼ同身大の11人の「家族」像を目の前にすると、絵画と現実との境界が撤廃されたような錯覚にとらわれるだろう。

 この絵では、スペインでは初めてであるが、制作中の画家の自画像を王家集団肖像画と共存させている。国王夫妻との共生によって画家の姿もまた不朽なものに変わるのだ。画家は高貴な職業であるという、芸術家の社会的地位の上昇を希求するベラスケスの自己主張であろう。そして絵の中の画家の胸には大きな赤い「サンティアゴ修道騎士団章」が描かれている。これは12世紀中葉、イベリア半島でのレコンキスタの最中に誕生した、最も由緒正しい騎士団であった。従って入団には 「血の純潔」「貴族性」をはじめ厳しい資格審査をパスしなければならない。この絵が描かれたのは1656年。彼がサンティアゴ騎士団に入団できたのは1659年11月。おそらく国王の許可を得て、あるいは勧めで、ベラスケスは騎士団章を描き加え、晴れて正真正銘の貴族になった。こうまでして「貴族」になることにこだわったのは、彼は平民の出自であり、しかも「コンベルソ(改宗ユダヤ教徒)」の家系に繋がる可能性が非常に高かったからだ。コンベルソの抹殺を目的として異端尋問所が1478年に初めてセビ-リャに設置された。セビ-リャ生まれのベラスケスは異端尋問所の残酷さを十分に知っていたはずであり、コンベルソ的血筋を一刻も早く消去したかったのだろう。彼はサンティアゴ修道騎士となって8ヶ月後に亡くなった。その間一度たりとも、公文書類においてこの名誉ある呼称を使わなかった。彼がハプスブルク朝スペインの終焉(1700年)と遭遇しなかったのは、せめてもの幸せだったかもしれない。



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、杖道3段、居合道4段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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