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acueducto 40 特集「私の道にスペイン語があって。」

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はじめてのスペイン 半世紀前の備忘録として


川成洋

España por primera vez, como un recuerdo de hace medio siglo.

はじめてのスペイン 半世紀前の備忘録として

 全体主義体制の国を見てみたい。具体的には、スペイン内戦の勝利者フランコのスペインとはどんな国か。これが私をスペインに向かわせた動機だった。

 1969年7月上旬、私ははじめてスペインの大地を踏んだ。その日の朝9時頃、国境の町ポル・ボウに着いた。入国審査所には国境警備兵、それにフランコの親衛隊と、影口を叩かれている武装した治安警備隊がじっと入国者たちを見つめていた。これぞ、全体主義の国と私は思った。

 入国者たちはドイツで働いている出稼ぎ労働者だと思うが、全員、白地にグレーかブルーの縞入りの大きな風呂敷包みを体の前と後ろにかけ、神妙な顔つきをして長蛇の列をつくっていた。実はフランスからスペイン国境に向かう列車の中で一緒になった。休暇で故国に帰るのだからうるさいのは仕方がないと思っていたが、ここでは全く別人になっていた。荷物の持ち込みの検査は厳重だった。彼らは検査用デスクの上に風呂敷をほどくと、その荷物の中味は一目瞭然、検査官にはいたって都合がいい。検査後、荷物をもとのように包むには相当手間暇がかかる。やれやれと思いつつ最後尾についていた私の「カニ族」スタイルを一目見た検察官がニヤリとOKサイン。さっそくバルセロナへ向かった。駅から出たところにホテル案内のプレートがあり、駅近くの安ホテルに投宿した。すぐ19 世紀後半に花咲いたモデルニスモ建築の揺籃の地「アシャンプラ(拡張地区)」へ出かけた。ここにモデルニスモの記念碑的建造物がひしめき合っているのだ。ついで、アントニ・ガウディのサグラダ・ファミリア教会。驚いたことに、建築途上の高い建物であったが、工事中の音や人の動きもなく、資材置き場ではないかと思うほど閑散としていた。そういえば、ガウディもこの教会建設の資金切れで何回も工事を中断したのだった。

 マドリードの喧騒はすさまじかった。連日連夜のサイレン。それも四方八方からまるで飛んでくるようだった。それに、市内のいたる所で眼を光らせている武装警官や治安警備隊員。おそらく私服の公安刑事もいるはずだ。フランコ体制の屋台骨が大きくぐらついているのだろう。反体制勢力への苛烈な弾圧と現体制側への強力な梃入れなどで対峙している。聞くところによると、学生デモを鎮圧する警官隊の放水には青い塗料が混入されていて、それが皮膚や衣料に付着するとなかなか落ちないので、デモ参加者は翌日でも逮捕されてしまう。

 ラス・ベンタス闘牛場で、タイミングよくというべきか、たまたまフランコの闘牛見物日であった。正門のゲート付近は武装警察隊や騎馬警察隊による重警備態勢。とにかく近づけない。仮にフランコをピストルで射殺しようとしても、その射程距離に侵入できないとのことだ。

 暑いマドリードからグラナダへ向かった。グラナダでは警官の眼は相変わらず鋭かったが、けたたましいサイレンはなかった。駅近くのホテルにチェックインして、ロルカが愛したグラナダの町を散策した。「アルハンブラの情景を、その運命と重ね合わせ。そのような状況で眺めたい人は夕暮れに行くとよい」と言ったのは、ワシントン・アーヴィング。昼から夕方にかけて、アルバイシンから眺めるアルハンブラ宮殿の全景は陽の残光や空模様が一刻一刻と様変わりする、ちょうど男盛りから老耄へと次第に変わっていくようだった。これも人生なりかと達観。実際に、滅びることを運命づけられたナスル王朝のアルハンブラ宮殿を歩きまわり、駅前のバールに立ち寄った。そこで、たまたま隣席の英語を喋る40 歳くらいの市役所職員と雑談した。彼は相当のインテリで、しかも現政権に批判的だった。それでも私は警戒して「フランコ」という名詞を口にしなかった。独裁者の名前はタブーだから。だが、ビールのせいか、あるいは話し相手への油断からだったのか、ロルカの名前を喋ってしまった。すると、今まで穏やかな彼が、突然、真っ赤になって、スペイン語でまくし立ててきた。よく聞き取れなかったが、ロルカのことで気が変わったのは間違いなかった。こんなことで、治安警備隊員に捕まったら、万事休すだと思い、ともかくそれを否定してその場を繕い、一目散にホテルへ退却。その夜、ホテルの自室から出る気がしなかったのは、言うまでもない。 

——それから半世紀が経ったスペインとは。フランコの死去(1975年11月)から、スペインは着実に民主化、社会化、欧州化が進み、わけてもEU加盟とNATO加盟により、スペイン陸軍は NATO軍の一翼でもあり、1841年から1936年まで実に202回も勃発したプロヌンシアミエント(軍事クーデター宣言)も起こさず比較的安寧状態が続いている。昨年10月、フランコの棺も「死者の谷」から搬出され、家族の眠る墓地に移された。これでようやく内戦の傷も癒えるのではないだろうか。



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、居合道4段、杖道3段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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