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acueducto 23 特集「『ドン・キホーテ』後篇出版400年に寄せて」

PARTE 2 主な『ドン・キホーテ』の邦訳
蔵本邦夫

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Museo Casa Natal de Cervantes

 

 日本で『ドン・キホーテ』の邦訳が始まるのは、明治以降である。しかしその紹介が始まるのは私見では江戸幕末期であった。邦訳紹介の前に、移入史にとってぜひ記憶にとどめておくべき3件を江戸幕末期から紹介しておきたい。

★各番号の書誌目録・写真についてはPDF版をご参照ください。

 

江戸幕末期

【1】江戸幕府が幕末にフランスから輸入した洋書が、現在は貴重書として静岡県立中央図書館に葵文庫(江戸幕府旧蔵書)として所蔵されている。その中に『ドン・キホーテ』がある。輸入年は不明である。精しくは拙著『幕末洋学研究とドン・キホーテ』を参照されたい。Cervantès Saavedra, Miguel de. L’ ingénieux hidalgo Don Quichotte de la Manche, traduite et annotès,par Louis Viardot. 2v, nouvelle edition.Paris, n.d.
【2】古賀茶渓(謹一郎) は日本で最初にセルバンテスの伝記と『ドン・キホーテ』を紹介した人物である。文中「争生地」では「ドン、キュイコッテ」と邦訳されている。古賀は外交にも関与し、ペリーの浦賀来航の際には答書の起草や直接折衝に当たっている。安政2年(1855)洋学所(翌年、蕃書調所と改称、東京大学の前身)頭取となり洋学の興隆に努めた。茶渓の主著は『度日閑言』である。これは暇に任せて西洋の文物、文学、文化関係の事柄をオランダ語の書物、百科全書、雑誌から漢文に翻訳したものである。この翻訳書( 手稿) は慶応3 年(1867) に完成し、全25巻で現在国立国会図書館に所蔵されている。
【3】日本で最初に『ドン・キホーテ』を読んだことが確証できる人物は、茶渓と親しくしていた中村敬宇(正直)である。彼は慶応2年に幕府からの留学生12名の監督となって渡欧し、英国ロンドン滞在1年余、明治元年(1867) 帰国している。彼は明治4年(1871)に,明治のベストセラーとなった『西国立志編』、明治11年(1878)『西洋品行論』の著者としても夙に有名である。中村は、ロンドン滞在中に2冊英訳の『ドン・キホーテ』を購入し、かつ読んだ形跡が書き込みからも明らかであり、また留学中にはスペイン語を学習していたことを裏付ける資料も残っている。Cervantes, Miguel de. (1866) Adventures of Don Quixote de la Mancha. Tr. Charles Jarvis, London, George Routledge and Sons.

明治時代 その1

【2】斎藤訳の序文「西イスパニヤ班牙の小説『ドンキーショットママ』中に録ろくするもの」や、『谷間の鶯』と同じ原書を使ったとする【3】中村訳の序文を読むかぎり、これらが本邦初の邦訳『ドン・キホーテ』となる。また【3】は翻訳者不詳【1】の完訳である。【2】や【3】の挿絵画家は尾形月耕である。【2】はよく売れたのか、異裝版や明治26 年の再版などもある。【1】、【2】、【3】の共通点は、校閲者が愛花仙史( 三木貞一) であることだ。ところでこれらの翻訳には奇妙な点がある。それは【2】や【3】の話が、『ドン・キホーテ』には見当たらないことである。実はこれらは、1613 年にセルバンテスが出版した『模範小説集』中の作品を翻訳したものであったからだ。【2】は『血の呼び声』、【1】と【3】は『いつわりの結婚』である。さらに表紙にはフランス語で「NOUVELLES DE CERVANTES」と印刷されている。それ故か、著者は「仏国セルバント」と誤解が生じている。本邦初の邦訳ではなかったが、しかし序文を読んだ明治の人々は、これを『ドン・キホーテ』だと思ったに違いない。

明治時代 その2

日本で最初の邦訳は、明治20 年4 月の『谷問乃鴬』と、同年10月に出た『美人の罠』の間、7月から9月にかけて青少年向けの『教育雑誌』に連載された【4】ワ.シ.( 訳編)『鈍喜翁奇行伝』(連載8 回)が最初である。セルバンテスの前篇第20章迄を、第1 回から第5 回に分けて抄訳している。ただし第3回以降は上下に分けたために8 回訳載された。しかし未完に終っている。訳者はワ. シ.と書かれているので、主筆の渡辺修二郎(国立国会図書館著者名典拠録の表記に従う。また本名は修次郎とある。)であろう。明治時代、もっとも重要な翻訳が【5】 松居松葉(真玄)『鈍機翁冒険譚』(上・下) である。後に号を松井松翁と改めた。明治にあって初めて前篇を抄訳であれ翻訳したことが、この本の重要なところである。しかし訳者は読者の便宜を考えて、登場人物名を漢字表記とした。これには訳者自身も後悔することになった。たとえば「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」は「鈍どんきほーてー喜翁、之ど 、羅らまんか慢呵」、「サンチョ・パンサ」は「三さんこう公、半ぱんざ左」である。明治時代、変わった翻訳者としては精神科医である尾島濱太郎( 本名:石田昇) がいる。東京大学医学部在学中、懸賞小説に入選し小説家を目指す一方で、『ドン・キホーテ』の前篇第14章、後篇第62章の抄訳を、雑誌『帝国文学』に発表する。そして翌年には全訳を志し、まずは前篇第6章までを【6】『世界奇書ドンキホーテー』として出版する。しかし二足の草鞋を履けぬと分かり、精神科医への道へと進むが、後年留学先のアメリカ で精神障害を起こし同僚の医師を銃で殺害したために終身刑を言い渡された。それゆえ長らく彼の名前は精神病学の世界では禁句であったと聞く。その後は病状悪化のため帰国した尾島は、東京大学卒業後に最初に勤めた東京府松沢病院(前東京府巣鴨病院)で、回復することもなく、ドン・キホーテと同様、ある時は理路整然と会話をし、またある時は狂気の淵を彷徨いながらその生涯を閉じた。アメリカ留学時に尾島の後任として長崎大学医学部に来たのは、後輩となる精神科医であり歌人でもある斎藤茂吉であった。尾島は留学前に斎藤を長崎で案内している。斎藤は尾島 の帰国後、何度か尾島を見舞うかたわら、「洋こうもり傘を持てるドン・キホーテは浅草の江戸館に来て涙をおとす」という短歌を残した。作家であり英文学者でユーモア文学を得意とする佐々木邦は、前後篇の抄訳である【7】『ドン・キホーテ物語』を出版する。その後大正時代になってから全訳を出版した。同じく【8】近藤敏三郎( 纂訳)『新訳ドン・キホーテ物語』も前後篇の抄訳である。

大正時代

佐々木邦は、明治の翻訳を【1】『全訳ドン・キホーテ』と改題し出版した。しかしこれも前後篇の抄訳である。もちろん明治のものと較べて翻訳量は遥かに多く、これで前後篇の物語を窺い知ることは十分可能になった。「全訳」とは、出版当時、「最も翻訳量が多い」翻訳であるという意味で取ればよい。【3】服部壽香(著)『ドン・キホーテ物語』は、前後篇の抄訳である。序文は森林太郎(鷗外) で、解説が島村抱月である。島村はドン・キホーテをハムレットと比較している。この比較はすでに明治の末から始まっていた。史学家、評論家、作家でもあった笹川臨風が編集したのが、前後篇抄訳の【4】通俗教育普及会(編訳)『通俗ドンキホーテ物語』である。そして大正時代最も注目すべき翻訳が、【5】島村抱月・片上伸( 訳)『ドン・キホーテ』(上巻・下巻) である。上巻・下巻合わせて2000頁にも及ぶ、本邦初の英訳からの完訳本である。【3】服部( 訳) で解説を書いた島村は、前篇の抄訳である【2】『冒険廻国ドン・キホーテ』を出版したロシア文学専攻の早稲田大学教授片上伸と、この偉業を成し遂げたのである。翻訳は主に片上が担当し、校閲を島村が行った。スペイン語に関しては、東京外国語学校の海老名毅介に照合を担当させたというが、サンチョ・パンサが「サンチョ―・パンザ」など、どこまで照合したのかは怪しい点もある。文部省は明治44年(1911) に、優れた文学作品の普及を目的として文芸委員会を設立した。『ドン・キホーテ』は翻訳事業として候補に挙がっていたが、その後大正2 年(1913) には会は廃止された。しかし翻訳は継続事業として進められ、この完訳本が完成したのである。だから出版時文部大臣高田早苗の「序文」がある。このあたりの経緯に関しては、昭和2 年(1927) の片上伸(訳)『ドン・キホーテ』の序文を参照されたい。【6】永橋卓介『ドン・キホーテ』は、前後篇の抄訳で、児童文学書としての翻訳である。【7】柴孝平( 述)『セルヴァンテス物語ドン・キホーテ』は、一般向けの前後篇の抄訳で、奧付を見ると11月に出版され12月にはすでに第4版を数えている。



蔵本 邦夫 / Kunio Kuramoto

関西外国語大学教授。専攻はスペイン文学および日西比較文学研究。著書に『滅びと異郷の比較文化』(共著、思文閣出版)、『セルバンテスの世界』(編者、世界思想社)を始めとする日本におけるセルバンテスの受容史や、森鷗外、夏目漱石を始めとする日本作家におけるスペイン文学の影響などを研究した著書・論文多数。

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