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acueducto 23 特集「『ドン・キホーテ』後篇出版400年に寄せて」

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PARTE 2 主な『ドン・キホーテ』の邦訳


蔵本邦夫

昭和時代 前期

大正時代に始まった片上伸の翻訳は、昭和になっても継続出版される。昭和2年(1927) に出版された【1-1】新潮社版の『ドン・キホーテ』は、昭和時代前期に最も普及した翻訳であった。内容は、大正4年(1915) 島村・片上 (訳)『ドン・キホーテ』(上巻・下巻) の、上巻(前篇) を新潮社が世界文学全集普及版として出版したものである。しかし再版を機に片上は2 回改訂を行い、さらに数回にわたって校正の読み直しを行った。その後、同社から文庫本(全4 巻)として出版された。大正の島村・片上の完訳に次いで、2 番目となる完訳が【2】森田草平(訳)『ドン・キホーテ』(上巻・下巻) である。森田は序文(下巻) で、「時代が移れば、風俗人情も移る。風俗人情に憑依することの最も多い文学に於ては、或時代に持て囃された傑作でも、次の時代にはそれ程持て囃されなくなる、少なくとも、その時代の人が読んで面白いと思った程、遠く年所を距へだてた後代の者に面白くなくなるのは、蓋し理の当然と云はなければなるまい。外国文学に於おいて特にその感が深いのである。その意味に於て、ゲーテもシエクスピアママも私にはさほど面白くない。面白いと云いたいが、そう云はれないのが正直なところである。その間にあって、この『ドン・キホーテ』ばかりは翻訳していながらも、時々筆を抛なげうって笑い出す程本当に面白かった。(中略) 篇中真面目な恋物語は、その牧歌的叙情詩と共に、概して面白くなかった。(中略) 兎に角長たらしいばかりで面白くなかった。訳者に面白くない位だから読者には尚更面白くなかろう。が、そんな所を度外視しても、『ドン・キホーテ』は永遠に生命のある珍書である、傑作である。」余談になるが、「ローマは1 日にして成らず。」という有名な諺がある。この諺はスペインの作家セルバンテスの『ドン・キホーテ』が出典であるとされている。しかし『ドン・キホーテ』にはそのような諺は見当たらない。これは『ドン・キホーテ』をスペイン語から英訳したときに、翻訳者が敢えて「ローマ」と地名を変えたことによる。もとの地名はウラーカの篭城したサモーラであった。『ドン・キホーテ』中の諺は次のようなものである。 “No se ganó Zamora en una hora.” 「サモーラは1 時間では陥落しなかった。」というものであった。これは後篇第71章に出てくる諺で、サンチョ2世が自分の即位を認めようとしないカスティーリャ皇女ウラーカの立てこもるサモーラ城を7か月も包囲した故事に倣って作られた諺である。諺は従者サンチョ・パンサばかりが言っていると思いがちだが、これはドン・キホーテがサンチョに言った諺であって、その内容とするところは 「急いては事を仕損ずる。」の例えとして用いたものであった。翻訳者が地名を変えた理由は、サモーラが馴染みのない地名だからであろう。この訳例を邦訳書で確かめてみる。大正4年(1915) 島村・片上(訳) は原本にイギリスのオームズビー訳(John Ormsby)を用いている。そしてさらに同じくイギリスのジャービス版(Charles Jarvis)とシェルトン版(Shelton)を参照したとも 「序」に書かれている。イギリスはドン・キホーテを最初に翻訳した国であり、その最初の翻訳者はトーマス・シェルトン(Thomas Shelton)で1607年のことであった(出版は前編が1612年、後編が1620年)。スペインでの『ドン・キホーテ』の初版が1605年であるから、如何にこの本が評判を得ていたのかがこの翻訳の早さからもわかる。さて大正4年の邦訳が用いたオームズビー版は、問題の諺を“Zamora was not won in an hour.” と翻訳している。そして邦訳書も「ザモラは一刻にや手に入らなんだ。」となっている。スペイン語の原文と同じである。では邦訳書が参照したジャービス版やシェルトン版はどうなっているのか。 ジャービス版は“Zamora was not taken in one day.” になっていて、地名はサモーラではあるが時間が1 時間から1 日に変わっていた。イギリスで最初の翻訳になるシェルトン版は“Rome was never built in one day.”とtaken(占領される) がbuilt(建てられる)に、時間が1日、そして地名がローマへと変わっていた。ロー マに地名が変わったのはここに原因の発端があった。ちなみに夏 目漱石がロンドン留学中に買って読んだ『ドン・キホーテ』のスモー レット版(Tobias Smollett)は“Zamora was not taken in one hour.” となっている。さて森田(訳) は翻訳にあたって最も定評のあるモットー版(Peter Motteux)を選んだと書いているが、 問題の諺は“Rome was not built in a day.” 「ローマは1 日で建設せられたのではない。」と、シェルトン版のnever をnot に変えただけのものであって、明らかにシェルトン版を踏襲していることが窺い知れる。この邦訳書は島村・片上のものよりよく売れ たことが版数からもわかる。だから日本でも「ローマは1 日にして成らず。」は『ドン・キホーテ』が出典だと考えられるようになったのも無理からぬことであろう。

昭和時代 後期

『ドン・キホーテ』に関する紹介や評論はすでにあったが、昭和8年永田の日本で初めての本格的な研究書が岩波講座世界文学の一書として出版された。ここに専門的な研究が緒に就くことになる。そしてそれまでの英訳と違い、初めてスペイン語原典からの翻訳として、永田は【3-1】『ドン・キホーテ』(正編3冊・続編2冊)を岩波文庫から出版する。永田は岩波茂雄に「あまり大事をとって、ぐずぐずしていると、着手しないうちに死んでしまいますよ」と言われたというが、その通りになってしまった。昭和23年に始まった翻訳は、昭和52年に弟子の高橋が続編2の注と続編3の翻訳を引き継ぎ完結することになった。これから以降の紹介する翻訳は堀口訳を除いてスペイン語からの翻訳である。【4-1】進藤遠(訳)は前篇27章までの翻訳で、【4-2】進藤(訳)は前篇の翻訳である。なお【4-2】の月報には会田由が寄稿している。【5-1】会田(訳)は前篇の翻訳である。出版については「曲がりなりにも、一応形をなしたのは(中略)東京外国語学校卒業の鼓直君の助力の賜である。最後の9章ばかりは鼓君に下訳をしてもらった」(「解説」)とある。【5-2】会田(訳)は、師に先んじて日本で最初に原典から完訳を行った翻訳である。前篇の翻訳は永田、完訳は会田が先となる。しかしこれには裏話がある。後輩になる大島正が「筑摩書房の世界文学大系の中に『ドン・キホーテ』が入ることに決ってからのことであったが私は所用があって、会田由氏宅を訪ねた。彼は『ドン・キホーテ』の翻訳をしている最中であった。ふと机の上を見ると、大きな原稿用紙に岩波版『ドン・キホーテ』が一頁ずつ貼ってあり、彼はそれをできるだけ自分の文章に直しているのであった。いわゆる日文日訳である。私は彼に、そんなやり方はおかしいと思わず口ばしった。会田氏は私よりも、はるかに先輩であったが、ともに永田先生について習った、いわば相弟子である。だから、会田氏の態度にいささかむかっ腹を立てた。『そうはいってもナ、出版社は早く原稿をとせき立てるので仕方なく、こんなことをやっているのだ』というのが彼の返事であった。私はそれだけならまだ許せたが「永田の訳は下手な上に間違いが多くてナ」という彼の言葉に対しては憤慨などという表現ではすまされないものを感じた。永田訳は決して拙訳ではない。むしろ名訳である。翻訳には誤訳はつきものである。すくなくとも恩師の旧訳を無断で利用しながら、言う言葉ではないと思った。そこで2人の間にいささか険悪なやりとりがあったように覚えているし、それ以後私は会田氏とは気持の上でしっくりいかなくなったように思う。翻訳文には、創作と同じ意味の独創性はないかもしれないが、いくら急いでも、他人の訳文を原稿用紙にはりつけて、日文日訳というのは誠に恥ずべきやり方である。しかし、後でよく考えてみると、会田氏は恩師の旧訳をそのようなかたちで利用することに、後めたさを感じたに違いないと思った。だからできるだけ永田訳に変化をつけようとしたので、原文の真意をつかみ損ねる結果になることもあったのだろう」(大島正『スペイン文学への誘い』)と書いている。昭和47年版の会田(訳)は、前後篇の合本版である。昭和時代後期にあっては、出版社が変わり、装丁が変わっても、出版される『ドン・キホーテ』の翻訳はそのほとんどが会田(訳)であったことは事実である。【5-3】は青少年向けの前後編の抄訳である。翻訳を会田、編集を大林が担当した。【5-4】は【5-3】と同じく青少年向けではあるが、ルビが多く見られることから、むしろ児童文学書である。昭和46年(1971)に会田が急逝したことを受けて、編集と『セルバンテスの生涯』を牛島が担当した。【6-1】堀口(訳)はフランス語からの翻訳である。堀口は日本の近代史に多大の影響を与えたフランス文学者、詩人であり、夙に有名である。名前は本名で、父が東京大学の学生で、大學が生まれたのが東京大学の赤門近くであったので、この名前を付けたのである。堀口は「20代の2年間をスペイン本土に、1年半をスペイン語を国語とするメキシコに、また5年間をスペイン語の双生児に近い姉妹語ポルトガル語が国語のブラジルで過ごしているので、セルバンテスの母語とは、昔なつかしい馴染の仲なので、昔を思い出し、仏訳を参照しながら、この訳をなした」(『まえがき』)とある。前篇の翻訳である。【6-2】は新潮社版を、普及版として講談社世界文学全集の1冊に加えたものである。【7】は岩波少年文庫として、昭和26年【3-2】永田(訳)を、牛島が新訳、再編集して出版した。

平成時代

昭和時代末から平成にかけて、『ドン・キホーテ』研究を牽引する役割を果たしてきたのが牛島である。師会田の後を受け、昭和46年『伝記』を書き、昭和62年岩波少年文庫で永田の後を継ぎ、満を持して【1-1】牛島信明(訳) 『新訳ドン・キホーテ』(前篇・後篇)を発表した。初めて原典からの翻訳が始まって半世紀あまり経って、ここから『ドン・キホーテ』の翻訳の新しい時代が始まることになる。その後は【2】荻内(訳)、そして1番新しい出版が【3】岩根(訳)である。岩根は『贋作ドン・キホーテ』(上下)も翻訳している。



蔵本 邦夫 / Kunio Kuramoto

関西外国語大学教授。専攻はスペイン文学および日西比較文学研究。著書に『滅びと異郷の比較文化』(共著、思文閣出版)、『セルバンテスの世界』(編者、世界思想社)を始めとする日本におけるセルバンテスの受容史や、森鷗外、夏目漱石を始めとする日本作家におけるスペイン文学の影響などを研究した著書・論文多数。

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