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acueducto 27 特集「スペイン内戦とは何だったのか」

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スペイン内戦とは何だったのか


川成洋

マドリードで掲げられた横断幕「ノー・パサラン(奴らを通すな)!」 / Wikipedia

 

 1936年のスペイン。日本で言えば、昭和11年、真っ白い東京の中枢部を血染めにした2・26事件が勃発したのだったが、この年の7月17日、かねてからの噂の通り、スペイン領モロッコにおいてスペイン正規軍が共和国政府に対して軍事クーデターを起こした。このクーデター成功の合言葉「異常なし」が全土の50ヶ所の駐屯地に打電され、翌日払暁、一斉にクーデターが起った。ところが、軍事クーデター、戒厳令の布告、軍事政権の樹立を目論んでいた叛乱軍首脳が全く予想していなかった事態が発生したのである。「羊のごとく従順でおとなしい」と見下されていた国民が叛乱軍の行く手に立ちはだかったのだ。

 こうした軍部の不穏な動静をいち早く察知した社会労働党系の労働総同盟(UGT)、アナキスト系の国民労働連合(CNT)などの組合員、さらに市井の民衆までもが武力抵抗をしたのだった。その主力をなす勢力は、2年前の「アストゥリアス10月革命」(1934年10月5~18日)の体験者であったろう。彼らは、マドリードとバルセロナにおいて、叛乱軍を一両日中に鎮圧した。また第3番目の都市、バレンシアでは指揮官の中で動揺が生まれたためか、その数日後に軍事叛乱の芽を潰してしまう。彼らは、叛乱軍に対して屈辱的な隷属よりも、果敢な武力抵抗による「内戦」を、さらにより良き社会を建設するための「社会改革」を選んだのだった。彼らの、抵抗のスローガンは「ノー・パサラン( 奴らを通すな)!」であった。これこそ、民衆の側からすれば、まさに「7月革命」であり、ここに、スペイン内戦の「原風景」があったといえよう。

 軍事クーデターの謀議段階に加わらなかったフランコ将軍が、いわば左遷先のカナリー諸島から現地モロッコに飛び、クーデターの成功直後の叛乱軍の指揮を執る。海軍が共和国陣営についていたので、アフリカ軍を本土に進攻させる手段として、ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニにジブラルタル海峡の輸送作戦の全面的支援を要請する。7月28~30日、独伊の輸送機、モロッコに到着。8月5日、叛乱軍の本土上陸。こうして、挫折しかかった軍事クーデターを蘇生させることで、スペイン内戦の火蓋が切られたのだった。

 

爆発で大きな穴が空いた、マドリードのプエルタ・デル・ソルの一角(アルカラ通り方面)
©ESPAÑA. MINISTERIO DE CULTURA.



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、居合道4段、杖道3段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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