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acueducto 27 特集「スペイン内戦とは何だったのか」

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スペイン内戦とは何だったのか


川成洋

 首都マドリードを攻撃目標とするフランコ叛乱は破竹の勢いで北上し、また北部のモラ将軍指揮の叛乱軍も南下した。10月中旬、マドリードを10キロの線で半円形に包囲する叛乱軍は、マドリード西部のカサ・デル・カンポと呼ばれる台地に大砲陣地を構築し、連日連夜市内を猛襲した。10月24日、ソ連兵器と軍事顧問、共和国に到着。同月28日、建設中のマドリード大学のキャンパスに侵入する。同月30日と31日の両日、独伊空軍によるヨーロッパで最初の空からの威嚇攻撃を行う。11月4日、マドリードのヘタフェ空港が陥落する。同月6日、CNTは猛烈に反対したが、政府はマドリードの防衛を退役したホセ・ミアハ将軍を議長とする「マドリード防衛評議会」に一任し、首都をバレンシアに移す。同月7日未明、叛乱軍の猛襲が再開され、マドリードの陥落は、いわば秒読み段階に入った。事実、ラジオ・リスボンは叛乱軍の総師フランコ将軍が真っ白い軍馬に跨りマドリードに凱旋入城したという晴れやかな情景を放送する。この放送を受けてか、『東京朝日新聞(現・朝日新聞)』は、「マドリード入城の報」(11 月8日付)と題する号外を出した。勿論、このマドリード陥落は大誤報であった。ちなみに、『東京朝日新聞』は、スペイン内戦を特集した号外を、1936年8月11日付(オリンピック合併号)、9月6日付、10月18日付、1937年1月24日付、と都合5回も発行している。

 1937年7月31日、共和国政府をバルセロナに移す。従って、バルセロナは、カタルーニャ、バスク、それにスペイン共和国と3つの政府所在地となる。

 実際にマドリードが陥落したのは、フランコが内戦の勝利宣言する1939年4月1日の、4日前の3月28日であった。つまり、終始劣勢を強いられ、さまざまな政治的・社会的問題点――バスクとカタルーニャの地方自治政府の誕生と共和国政府との関係、社会主義国ソ連の同盟国スペイン共和国への援助と支配権の確立、呉越同船の人民戦線の結成と破綻、個人的な倫理観や世界観に基づく政治参加、55ヶ国からの義勇兵による国際旅団の参加、民主主義国の怯懦とエゴイズム、列強の代理戦争的側面、政治的粛清、戦争プロパガンダの政治優先主義、アナキストの共和国政府の入閣、敵の士気を削ぐための非戦闘員の大量殺戮、無差別絨毯爆撃――をはらみながらも、しかもその80年後の現代社会においても、解決に至らない「未決の現代史」的側面を残しつつ、共和国陣営は最後の土壇場まで抵抗したのだった。

 

戦地へ向かう道中にて、牛乳をふるまわれる民兵たち
©ESPAÑA. MINISTERIO DE CULTURA.

 

戦闘に参入するため、最前線へと向かう突入部隊
©ESPAÑA. MINISTERIO DE CULTURA.

 

 繰り返しになるが、スペイン内戦が終息したのが1939年4月1日。まさにその5ヶ月後の9月1日、ドイツ軍のポーランド電撃的侵攻による第2次世界大戦の勃発。スペイン内戦が「第2次世界大戦の前哨戦」といわれている由縁である。しかし、独裁者フランコのスペインは、世界大戦に「中立」を宣言した。

 

写真提供:
ESPAÑA. MINISTERIO DE CULTURA.
El Archivo Fotográfico de la Delegación de Propaganda y Prensa de Madrid durante la Guerra Civil



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、居合道4段、杖道3段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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