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acueducto 29 特集「スペインを生きた芸術家、堀越千秋」

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ドン・キホーテとサンチョ・パンサ


荻内勝之

 堀越との出会いは、フラメンコの歌の会だ。1979年、歌手マヌエル・アグヘタの舞台に、二人とも、かぶりついていた。その時のことは、フラメンコ誌「パセオ」で書いた。

 以来、途絶えることなく付き合ってきた。まだ、マドリードのプラサ・マヨールが割と安全で夕方のお茶に向いていたころは、日本人の絵描きや物書きが待ち合わせたかのように一緒になって、堀越もその常連で、幾時間も駄弁った。マヨール大路のカフェ・チキでも安いブランデーの杯を重ねて居続けた。ローマ法皇庁の出先があるヌンシオ通りのテラス・カフェでは、決まったようにカバのボトルを空けた。夜明けまで居座るのは当たり前だった。どこにも馴染みのカマレロがいて、座ればお決まりの飲み物が来た。地下鉄ラバピエスあたりの広場でカマロン・デ・ラ・イスラの歌を初めて生で聴いたのも堀越と一緒だった。カマロンが堀越の住む郊外地区アルコルコンで歌った時は早朝のタクシーで都心へ帰った。ギターのトマティートがレティロ公園で弾いた時も一緒だった。セビーリャのフラメンコの祭典ビエナルには、ひと月近くもセビーリャにいて会場に通い、カタツムリやイソギンチャクを好んで食い回った。

 闘牛場の向こう正面に堀越が居たりして写真に撮ることもあった。マドリードの我が家で喋るときは、塩干しのバカラオ鱈の戻しエスケイシャーダを刺身感覚で食った。ガルバンソ豆と豚の煮物コシードも大量に作った。25人分作ったこともある。そこにも堀越はいた。二人で美人ギャルをひきつれているときは一桁違う店へ行った。帰りに鍵を失くして堀越のアトリエの床で寝たこともある。

 東京・国分寺のほんやらどう、西荻窪のル・マタン、銀座の三州屋も、いつもの店であった。絵を飾らない我が家で、堀越が、美的に許さん、といって家具を五階の窓から捨てようとしたこともある。マドリードで東京から来た美しい女流ギタリストと知り合って二人とも舞い上がった。セビーリャの川では巨大帆船へ自転車式ボートを漕いだ。アンダルシアのロンダでは山中の景色を愛でながら歩いていると、突然、谷底の密林からラバがヌーっと現れた。その時の堀越の反応が忘れられない。ラバは薪を満載し、父と娘らしい二人がひいていた。娘の顔は髭もじゃであった。堀越は、あの娘は自分が女であることに気づいていないかも、と言った。美しい環境にいないと美しいものは描けない、という会話をしていた時であった。

 ロンダには友人が多く、水洗トイレの壊れた家で三週間、ワイワイガヤガヤ過ごした。深夜、泥酔のまま、四人乗りの車で六人がモロンの洞窟近くのフラメンコ人を訪ねた。マドリードで歌手ラファエル・ロメロと会って日本招聘の話をした時も一緒だった。マドリードの王宮前広場で、深夜、ギターの俵英三も一緒に、フラメンコごっこをしたこともある。

 堀越が荻内勝之訳『ドン・キホーテ』の挿絵を描く話が進んでからは、三度、四度とラ・マンチャを訪ねた。普段は砂漠のようなラ・マンチャが豪雨になって、宿の床下の水をかいだしたこともある。本が出てからは、二人が車でドン・キホーテの道を行くテレビ番組の企画が進んでいた。荻内が喋り、堀越がスケッチ、車の運転がスペインの若い女優という企画であった。二人は、『ドン・キホーテ』という舞台のドン・キホーテとサンチョ・パンサで、運転が麗しのドゥルシネーア・デル・トボーソ、という見立てであった。

マドリードのアトリエ ©Shunichiro Morita

 



荻内 勝之 / Katsuyuki Ogiuchi

1943年ハルピン生。神戸市外国語大学イスパニア学科卒、バルセロナ大学文学部イスパニア研究科卒、神戸外大大学院修士課程修了、1970年東京経済大学専任講師、助教授を経て1989年教授。スペイン文学者、東京経済大学名誉教授。東京闘牛の会 TENDIDO TAURO TOKYO会長。主要著書・翻訳書:『ドン・キホーテの食卓』(新潮社)、『スペイン・ラプソディ』(主婦の友社)、『おっ父ったんが行く』(福音館日曜日文庫)『ドン・キホーテ』全4巻(新潮社)他。

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