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acueducto 34 特集「LAS CORRIDAS DE TOROS -闘牛-」

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アンダナーダで考えた


荻内勝之

アンダナーダで考えた

  後楽園球場が東京ドームではなかったころ、しばしば、プロ野球のナイター試合を見た。巨人戦はいつも満員だから避け、他を外野席で見た。外野席は空にひろがって、そばの客は宵の明星だけだったりした。そこで本を読む。打ったり投げたりが読書の妨げになることはない。河原で子等が遊ぶのを堤防からを見るようなものだ。外野フライは、中空をかすめとぶ鳥であった。あれから数十年、このごろはマドリードで闘牛を最上段の席でみる。出場する闘牛士や牛の牧場などの予備知識はもたない。闘牛は、たいてい、闘牛士3人が出て、1頭ずつ、順に、交替で、6頭を相手にする。しめて2時間。 マドリードの闘牛場は、まん丸の円形だ。牛と人がふむアレーナも円形で、直径は65m。観覧席の最上段はアンダナーダ席という。最上段の全周を占め、屋根が付いている。屋根があるのはアンダナーダのみ。日光の直射をうけるソル側でもアンダナーダには屋根がある。屋根の幅はほぼ4メートル。軍艦が両舷から大砲を一斉に発射するのをandanadaというらしい。砲身が窓の庇をかぶって並ぶさまに見立てたか。マドリードのベンタス闘牛場だけで使われる名である。闘牛を、年中、日曜日ごとにやるところは、現在、ベンタス闘牛場だけだ。アンダナーダには日曜毎の常連が多い。特典は闘牛場の全貌が鳥瞰できることだろう。

 そのアンダナーダで、ある日考えた。現在の闘牛場は、なぜ円形が多いのか。昔は四角形か多角形だった。現在も四角形や多角形でやることがあるが、円形が主流になったのはいつで、なぜか。 遡れば、スペインではキリスト教以前から牛を贄に供えていた。牛を豊富なタンパク質源として崇め、狩って屠って食す儀式をつくった。同じことにありつけますようにとの願掛けだ。スペインに牛が多くいたからその習わしができたのか。逆だ。アルタミラの人々は、毎日のように牛狩をしたのではない。稀少な牛を、村人が総出で狩り、1頭1頭をありがたくちょうだいして、あのように壁画に残した。  スペイン人が食す畜肉の量は、ヨーロッパで最少であった。400年前のロンドンで1人が1日で食す肉の量はマドリードの1人の1年分に相当した。当時、英国艦隊のビスケットは牛由来のバターで捏ね、スペイン艦隊のビスケットはオリーブ油を使った。スペインの家畜の代表は羊であった。羊毛が売れた。国民は、羊を食べず、羊が毛を売って国民を食べさせていた。羊はなんでも我が物顔で食み、牛は山中で餌を探して野生のように育った。そんな牛が、深夜の崖っぷちの隘路を、風雨にさらされながら歩くのを見た。両足をおく幅がないので内股で歩いていた。かく鍛えられた雄牛を、祭りが近づくと集落の囲い場にさそいこみ、当日、中央広場へ移した。広場は建物に囲まれた四角形か多角形。周りから町中が見守る中で牛は殺される。みんなが屠殺の目撃証人であり、みんなで贄を食す。当時も今も、この儀式の場をプラサplaza という。特に、プラサ・マヨールという町が多い。人々は引き出された牛を品評し、不具や損傷を認めると普通の屠殺にまわす。贄になる牛に、容姿の美と凛々しさを贅沢なまでに求めるのだ。

Ⓒ足立由香里

 闘牛士は騎馬で、馬上から牛を槍で突いた。留めをさせない場合は馬をおりて剣で刺すこともあるが、徒歩の従者が剣で仕留めることもあった。鉄砲の時代の平時の騎士に騎馬闘牛は難しくなっていた。馬の数も激減し、軍事に差し支えるようになっていた。そこで、1570年ごろ、国王の肝煎りで軍事用の馬術教練を強化する団体Real Maestranza de Caballeria が結成された。有力な貴族の講社組織であるが、厳格な運営で騎馬闘牛を盛り立てた。1572年にロンダの教練団体がその最初で、100年後にセビリア、グラナダ、バレンシアと相継ぎ、サラゴサでも、それまでの類似団体が1819年にReal Maestranza de Caballeriaを結成した。 しかし、どの講社が催す闘牛も場所はずっと四角形の広場であった。いっぽう、そのあいだに、1730年ごろから、貴族や騎士身分ではなく平民の、馬丁や屠殺人が、剣で牛を仕留めるまでを徒歩でこなし、ヒーローやスターになっていた。プロの徒歩闘牛士の誕生だ。騎馬闘牛も続いてはいたが、騎士の教練や遊戯の域を出ず、徒歩の平民が闘牛の主役になっていた。

 しかし、プロとなると、稼がねばならず、公式の儀式だけでは十分ではないので、見世物としても演じるようになった。その際、儀式は名目に留まる。「これから仕留める雄牛を町の皆さんに捧げる」と宣言はするが、実はそうはならず、見世物興行として日常化していき、それにつれて、広場闘牛の弱点がはっきりしてきた。中央広場は、人は集まりやすいが、アレーナが角ばっていては席によって見え方の不公平が大きい。また、四角い広場の隅に生じる吹き溜まりを牛が避難場と心得て閉じこもるとか、アレーナは舗石に砂をまいた程度なので牛も馬も人も滑ったり転んだりする。さらには、市街での馬車の出入りが制限されて闘牛士の入場が遅れたりする。というわけで、あちこちで郊外に闘牛場が新設されたが、アレーナ部分は四角形、多角形と円形の可変式が多く、新設で、建物もアレーナも円形そのものという闘牛場はマドリードが最初であった。やがて、都市の闘牛場はすべて円形になるが、わたしはいま、ベンタス闘牛場の最上段席アンダナーダにいて、そのアレーナの円さの効用を書ききれなかったことを悔やんでいる。

ⒸJacques Rouquette



荻内 勝之 / Katsuyuki Ogiuchi

1943年ハルピン生。神戸市外国語大学イスパニア学科卒、バルセロナ大学文学部イスパニア研究科卒、神戸外大大学院修士課程修了、1970年東京経済大学専任講師、助教授を経て1989年教授。スペイン文学者、東京経済大学名誉教授。東京闘牛の会 TENDIDO TAURO TOKYO会長。主要著書・翻訳書:『ドン・キホーテの食卓』(新潮社)、『スペイン・ラプソディ』(主婦の友社)、『おっ父ったんが行く』(福音館日曜日文庫)『ドン・キホーテ』全4巻(新潮社)他。

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