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『ハンニバル戦争』


川成洋

ハンニバル戦争
佐藤 賢一 著

中央公論新社
■2019年1月刊
■定価920円+税

 古代ローマ史の「ハンニバル戦争」がヨーロッパ列強の陸軍士官学校の戦術史演習に教材として使われていたという。なぜか。具体的なところは、国防上の軍事機密になるのだろうか、わからない。管見であるが、古代世界で屈指の名将ハンニバルの戦術の巧みさが、現代戦に挑む指揮官の究極的な判断力と何らかで関係しているのかもしれない。

 紀元前11世紀初頭にイベリア半島の大西洋岸の町カディスを建設したのはフェニキア人だった。その末裔に当たるカルタゴ人が紀元前700年頃からイベリア半島南部に定住するようになり、北アフリカの地中海沿い一帯にその支配権を確立し「地中海の女王」と謳われるほどになる。やがて、イタリア半島を平定した新興国ローマが、地中海の覇権をめぐって、カルタゴと正面から激突する。それが3次にわたる「ポエニ戦争」である。第1次ポエニ戦争(前264-前241年)では海軍力の優勢なローマが勝利する。前219年、カルタゴ軍総司令官に任命された28歳のハンニバル(前247-183年)は父の遺志を継ぎ不倶戴天の敵であるローマの攻略作戦に着手、初陣としてローマの同盟都市サグントゥム(現サグント)を包囲攻撃する。この町はローマ軍の救出の望みが途絶えたと判断し、降伏ではなく、自らの町に火を放って自害の道を選んだ。これが、第2次ポエニ戦争(前214-前201年)、別名「ハンニバル戦争」の発端であった。

 ハンニバル麾下の、歩兵5万、騎兵9千、それに戦象40頭のカルタゴ軍が、徒歩でアルプスを越え、北からイタリア半島に侵攻する。緒戦は順風満帆。イタリア半島の東南地方のカンナエ(カンヌー)の戦い(前216年8月)で、5万のカルタゴ軍と8万のローマ軍が対峙し、戦史上最大の殲滅戦を展開した。ローマ軍に壊滅的打撃を与え、ローマ市内にあと一歩という地点まで追撃したものの、なぜか、決定的打撃を浴びせなかった。

 本書『ハンニバル戦争』は、ハンニバルを怨敵と見なすローマ軍司令官スピキオ(前235-前183年)に焦点を当てて書かれている。彼はローマ軍の空前絶後の大敗北となったカンナエの戦いにおいて19歳の青年将校として参戦し、7万人もの味方の戦死者群をかいくぐって、かろうじて敗残兵とともに脱出したのだった。実際に、ハンニバルの常識外の戦術を直に体験した後、それを徹底的に研究した。地形、気象といった自然環境の研究も怠らなかった。イタリア遠征中のハンニバル軍の兵站線を断ち切るために、26歳のスピキオはイベリア半島制圧の指揮官に任じられる。カルタゴの本拠地であるカルタゴ・ノヴァ(カタルヘナ)を占領し、前205年にカディスを制圧する。ついで前202年、ローマ軍はカルタゴの首府近くのザマの戦いで決戦を挑む。戦争はまたしてもカルタゴの敗北で終結する。今や敗軍の将ハンニバルもローマの権勢の及ばぬピティニア国に逃れる。だがローマは彼の身柄の引き渡しを強く迫る。前183年、ハンニバルは「ローマ人を不安から解放してやる」と言って毒杯を仰いだのだった。

 ハンニバルを斃した「救国の英雄」スピキオはローマに凱旋するが、その後、彼は公金不正使用、越権行為などで元老院に告発される。また独裁者などと扱き下ろされた。結局、こうした理不尽な讒訴は解明され、断罪は免れたものの、政治生命は断たれた。憤慨のあまり彼は家族と別れてナポリ近郊に隠棲するが、不思議なことに、ハンニバルが自死したのと同じ年に、スピキオも燃え尽きてしまう。忘恩の祖国を断じて許すことなく、スピキオ家の墓に葬られることも拒否したという。

 ともあれ、この2人の名将は実に壮絶な生涯を送ったのだった。

 1623年、18歳の国王フェリペ4世によって弱冠24歳で宮廷画家に抜擢されたベラスケスは、その後、勅令によリ、私室取次係(27年)、王室衣裳係代(36年)、王室侍従代(43年)、王室配室係(52年)、次いで王室配室長に任じられた。こうして彼は宮廷画家と廷臣の階梯を登りつめたものの、なぜか公文書類には自分の職名に廷臣の方を記入し、周囲からもそう呼ばれていた。ベラスケスが描いた国王の肖像画は、いずれもスペイン帝国の頂点に君臨する者としての威厳に満ち、堂々としているが、どうも彼の肖像画には何らかの作意が働いているのではないかと勘繰りたくなる。実際のところ、フェリペ4世は統治者としては無気力で無能、放埓な生活を懲りずに繰り返す色魔、文芸擁護者・愛好者という点では詩人、金に糸目をつけない美術収集家、愛の遍歴ごとに罪の意識にかられ胸を静かに軽く打つ敬虔なカトリック教徒だからである。

「寵臣政治」が惹起してきた権謀術策うずまく宮廷の真っ只中で、ベラスケスはどう生きたのか。

  本書によると、封建的な宮廷社会では、手を汚す職業である画家を自ら公言するのは憚られることだった。それゆえ、ベラスケスは黙々と絵を描き、あるいは廷臣としての責務をひたすら果たし、宮廷においては異常なまでの沈黙を守り慎重に生きていた。そして56年、激務の合間を縫って、スペイン絵画史上初の王家の集団肖像画《フェリペ4世の家族》、愛称《ラス・メニーナス》を描いた。縦318cm×横276cmの大きいキャンバスに描かれているほぼ同身大の11人の「家族」像を目の前にすると、絵画と現実との境界が撤廃されたような錯覚にとらわれるだろう。

 この絵では、スペインでは初めてであるが、制作中の画家の自画像を王家集団肖像画と共存させている。国王夫妻との共生によって画家の姿もまた不朽なものに変わるのだ。画家は高貴な職業であるという、芸術家の社会的地位の上昇を希求するベラスケスの自己主張であろう。そして絵の中の画家の胸には大きな赤い「サンティアゴ修道騎士団章」が描かれている。これは12世紀中葉、イベリア半島でのレコンキスタの最中に誕生した、最も由緒正しい騎士団であった。従って入団には 「血の純潔」「貴族性」をはじめ厳しい資格審査をパスしなければならない。この絵が描かれたのは1656年。彼がサンティアゴ騎士団に入団できたのは1659年11月。おそらく国王の許可を得て、あるいは勧めで、ベラスケスは騎士団章を描き加え、晴れて正真正銘の貴族になった。こうまでして「貴族」になることにこだわったのは、彼は平民の出自であり、しかも「コンベルソ(改宗ユダヤ教徒)」の家系に繋がる可能性が非常に高かったからだ。コンベルソの抹殺を目的として異端尋問所が1478年に初めてセビ-リャに設置された。セビ-リャ生まれのベラスケスは異端尋問所の残酷さを十分に知っていたはずであり、コンベルソ的血筋を一刻も早く消去したかったのだろう。彼はサンティアゴ修道騎士となって8ヶ月後に亡くなった。その間一度たりとも、公文書類においてこの名誉ある呼称を使わなかった。彼がハプスブルク朝スペインの終焉(1700年)と遭遇しなかったのは、せめてもの幸せだったかもしれない。



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、杖道3段、居合道4段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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