2012年11月
「牛追い」まで囲い場で待機。興奮することなく穏やかな様子。
見物の記念にと昨年購入した白の衣装と赤の腰巻を身にまとい、牛追い開始30分前にスタート地点に立った。もう何年も全力疾走なんてしたことがないため、怪我しないようにと念入りにストレッチをしていると、短髪で屈強な男が真剣な面持ちで話しかけてきた。「どこから来た?」「日本」「何回目だ?」「初めて」「転んだら下敷きになるぞ」「わかった、ありがとう」握手をして別れた。努めて冷静に振る舞っているが、緊張と興奮で目が回りそうだ。開始5分前、参加者一斉に丸めた新聞紙を上にかざし、守護聖人サン・フェルミンに歌を捧げ、勇気を鼓舞する鬨の声をあげる。ついに祭りの興奮は最高潮に達する。
午前8時、一発の花火を合図に、囲い場から12頭の牛が一斉に放たれた。先頭を切って3頭が横に並んで、あごを引き、角を向けて猛然と走ってきた。まるで尖った槍をくくり付けた軽自動車が突っ込んで来るような錯覚を起こした。もう無我夢中で走った。後れを取った群衆をかき分け、押しのけ、転んだ人を避けて、ひたすら走った。正気に戻った時は闘牛場の中だった。大観衆の拍手の中、完走できた者たちが互いの走破の無事と健闘をたたえ、息を切らしながら抱き合う。みな興奮のあまり手加減なく抱きつくので、とても痛い。だんだん興奮が冷めるうちに疲れを覚え始め、闘牛場の塀にもたれ掛かった。だが、のんびり余韻に浸っている時間はなかった。
闘牛場内の大型スクリーンには疾走中に頭部を負傷した参加者の姿が。牛追いの様子は毎日スペイン全土に生中継される。
闘牛場に追い込んだ牛が退場して「牛追い」は終了する。しかし、今度は走っていなかった元気な1頭の牛が場内に放たれ、ゴールできた者たちがそれを素手で取り押さえる「素人闘牛」という、さらに危険な行事が行われるのだ。度胸のある者は、闘牛士のように手に持った服を広げて牛を挑発する。牛は興奮し、前足で砂を掻きながら群衆を目がけて突進する。それを捕まえようとするのだが、丸腰の素人たちがかなうわけがない。牛と正面から絡んだ者は角で突き上げられ、吹き飛ばされ、倒れたところを容赦なく踏まれる。牛の首にしがみつこうとする者は、まるで宙を舞うように振り落とされる。それでも観衆に自分の勇気を示したい者たちが、次々と牛に向かっていく。数分すると、疲れた牛が退場して新たな猛牛が場内へ放たれ、格闘が繰り返される。「牛に触ると幸運が訪れる」という噂を事前に聞いていたので牛に触ろうと試みるが、近づくことすら簡単ではない。何頭目かで辛うじて背中を触って、後は逃げ回るばかりだ。10頭ほど牛が出入りしたところ、ようやく「素人闘牛」は終了した。もう、充実感と疲労でその場に座り込んでしまった。息を整えながら青い空を見上げていると、無情な係員に退場するよう促され、頼りない足取りで闘牛場の砂場を後にした。 祭りや過激な行事に興味がなかった私が、遠く1万km離れた、縁もゆかりもない国の危険に満ちた祭りに2年続けて行くとは思いもかけないことであったが、スリリングながらとても愉快な体験であった。また「牛追い」に東洋人が1人で参加していることが珍しいのか、実に多くのスペイン人が話しかけてきてくれた。そんな彼らの陽気で人懐こい振る舞いのおかげで、「牛追い祭り」の思い出が、さらに豊かになって私の心に実っている。
カメラマンが撮影した数十枚の写真が写真館で販売される。 疾走する牛たちの左側で、筆者が並走する写真を発見!