2015年08月
何に引きつけられて巡礼は歩くのか
巡礼で大事なことは「歩く」「食べる」「寝る」とよく言われます。こんな単調な毎日を繰り返すにも拘らず、何故毎年多くの巡礼者が地元スペインは言うまでもなく世界各地からやって来て聖地サンティアゴを目指して歩き続けるのでしょう。2013年には21万6千人がサンティアゴを訪れているしその数は増える一方。サンティアゴ巡礼路そのものが世界遺産であるのも理由の1つでしょう。カミーノには教会、修道院が点在し、博物館、資料館があり、美術・建築の壮大な展示場とも言えるのです。ロマネスク美術やゴシック様式のカテドラルなど挙げればキリがない。更に奇蹟・伝説に満ちあふれているカミーノだ。巡礼ならずとも魅了されるのは当然でしょう。素人の私にはとても語る知識も資格もありません。幸い多くの研究者たち、専門家、プロカメラマンによる著者の中で詳しく解説されていますので、これら諸先生方におまかせです。
スタンプ・ラリー
日を追うごとにサンティアゴに近づいている筈だがピンと来ない。巡礼手帳に押されていくスタンプの数と反比例して残りの距離が減っていくのは行程表でわかるが疲れは減ってくれない。夏休みなど子供たちに人気のあるスタンプ・ラリーを思い出した。立ち寄った先々でスタンプを押し所定の数に達したら景品がもらえる。巡礼者にとって「巡礼証明書」がこれに相当する。このご褒美は景品以上の価値のある1枚だ。但しサンティアゴ手前100km以上を歩いたと証明されることが条件。宿泊したアルベルゲのスタンプは日付と共に必ず押してもらう。途中訪れた教会、礼拝堂でも押してもらえる。バルやレストランでもスタンプが用意されているところもある。
引き算したら増えた
後ろから歩いて来たほかの巡礼者たちにあっと言う間に追いつかれ、追い抜かされる。「ブエン・カミーノ」と声をかけ相手も「ブエン・カミーノ」と返してくれる。今夜同じ宿に泊まるかもしれない。いや、あの速さなら更に先の宿に行ってしまうだろう。こうして出会い、再会し、そして別れを繰り返しながら巡礼はサンティアゴを目指して今日も歩き続ける。再び静寂に戻ると歩いているのは我々夫婦2人だけ。よくあることだ。今夜の宿を目指し「満員です」と断られないことを祈りつつ歩き続けるが疲れてくると思考力も落ちて、歩きながら歩いている状態。何だ!内面を見つめ自己と向き合い対話するのではなかったのか。そんな声が聞こえてきたような。いや気のせいだった。疲れてきているのだ。何故今歩いているのか。答えは出てこない。スイスイと我々を追い抜いていった彼らと何が違うのか。「狩猟民族」と「農耕民族」か。今、そんなことはどうでもよい。やっと気がついた。ザックが重すぎるのだ。「何が必要か」ではなく「どれが要らないか」と考え方を切り換えた。カミーノを歩いて教えられた。早速不要と思われるモノを郵便局から日本へ送り返した。ダンボール箱1個分。これで気持ちがスッキリし格段に歩きやすい。歩くことの喜び度も快適さも一挙に倍増。これは巡礼行に限ったことではない。帰国したら身辺のガラクタ整理をしなくちゃ。後日知ったが、ザックの宅配サービスがあり、指定した宿まで届けてくれる。以後頻繁に利用した。
中世の佇まいを今にとどめているカミーノを歩き、ローマ時代の橋を巡礼は今日も渡る。その人たちのザックを運ぶ宅配サービス。中世と現代の奇妙な共存。バルに到着すると「カーニャ(生ビール)」を注文するのが当たり前のご時世。
カミーノは感じる道
これまでカミーノは8回しか歩いていない。直感だが毎回何かが違う。カミーノは歩く道ではあるが同時に「感じる道」であると知った。何かを感じる。では何をどう感じるのかを言葉や数字で説明できない。それでいいと思っている。自己と対話をしたいからなんて聞き苦しい屁理屈。自宅でもできるじゃないか。でも何かを感じることはある。
日本での日常生活とは全く違う時間の過ごし方を余儀なくされる毎日の体験から得たものは多いし多くの人にも出会えた。再会もし、又別れた。これは巡礼ならではの貴重な収穫だった。サンティアゴに到着すると大聖堂に入りまずヤコブ様に無事に着きましたと報告。これまで道中お世話になったり親切にして下さった人たちへの感謝の気持ちも忘れまい。巡礼事務所で授与された「巡礼証明書」を手にすると、やっと巡礼は終った。だが本当の巡礼はこの瞬間から始まるのだと巡礼垂訓の1つにある。カミーノには出発点はあるが終点はないのだ。
では何故歩く?と尋ねられるたびに答えに窮してしまう。私自身よくわからないのだ。でも苦しまぎれの答えはこうだ。
「あなたも歩けばわかる」
杉本 嘉孝 / Yoshitaka Sugimoto
大阪府出身。1937年生まれ。2007年初めて巡礼路を歩き、以降2015年で8回目の巡礼となる。