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acueducto 35 特集「風車の町、コンスエグラ」

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Consuegra, pueblo de molinos


森本晃生

コンスエグラ城 Castillo de Consuegra

コンスエグラはラ・マンチャを象徴する風車と城の素晴らしい風景が望める町として有名であり、スペイン観光には、欠かせないフォト・スポットの1つです。その一方でコンスエグラ城に関しては、日本語の説明書きがないということもあり、日本では、あまり詳しくは知られていないというのが残念な現実。そこで本誌でこの町を取り上げるのを機に、この城についてもご紹介いたします。ヨーロッパにある城というと、高貴な方々の豪華な大邸宅といったものが多い中、このコンスエグラ城はまさしく軍事上の要塞であり、素朴にして機能的なつくりになっています。

支配の変遷を巡る歴史

スペインのあるイベリア半島は、711年から長きに渡ってイスラム帝国の支配を受けていました。現存する文書によると、10世紀頃のコンスエグラ城はイスラム帝国の要塞の1つだったと記されています。

もっともコンスエグラは、ローマ帝国の全盛期(1世紀頃)にその主要都市の1つであったため、城の起源はローマ帝国の要塞まで遡るのではないかという説もありますが、今のところそれを裏付けるものは何も見つかっていません。

コンスエグラ城が最初に歴史のスポットライトを浴びるのは、1097年のコンスエグラの戦いです。当時の背景を簡単に説明すると、3つに分裂したイスラム帝国の1つ、後ウマイア朝が756年からイベリア半島を支配していましたが、1031年にはいくつかの小王国(タイファ)に分裂し、互いに争い弱体化していきます。その中で立ち上がったキリスト教諸国による国土回復運動(レコンキスタ)により、キリスト教国の1つであるカスティーリャ王国の王アルフォンソ6世が、1085年にトレドをイスラム教徒たちから奪還するとそこを首都に定め、タイファ諸国に迫ります。

これに対し、タイファ諸国の1つのセビーリャ王国は、北アフリカにあるイスラム教国の新興国ムラービト朝に助けを求めます。ところがこのムラービト朝がイベリア半島にやって来ると、助けるどころかセビーリャ王国を征服し始めます。セビーリャ王は、ムラービト朝との戦いで戦死した息子の嫁ザイダ姫をアルフォンソ6世と再婚させ、コンスエグラ城を結納の引き出物に差し出すことで、逆にカスティーリャ王国に助けを求め危機を乗り越えようとしますが、ついにはムラービト朝に滅ぼされてしまいます。

そして1097年8月、カスティーリャ王国とムラービト朝はコンスエグラで激突します。しかし、兵器、兵力、戦術と全てに勝るムラービト朝の圧勝に終わりました。カスティーリャ王国に援軍に来た英雄エル・シッドの一人息子、ディエゴ・ロドリゲスは戦死し、アルフォンソ6世自身もコンスエグラ城に8日間に渡って包囲され絶体絶命となります。幸い、ムラービト朝軍が包囲を解いて撤退したため事なきを得ました。

その後80年もの間、コンスエグラ城はキリスト教国側の手からイスラム教国側へ、またイスラム教国側の手からキリスト教国側へと行ったり来たりを何度も繰り返した後、1172年にキリスト教国のカスティーリャ王国が奪還したのを最後に、イスラム教国側に渡ることはありませんでした。そして1183年、カスティーリャ王アルフォンソ8世は、外人部隊である聖ヨハネ騎士団にコンスエグラ城を譲渡し、この地域の守備と行政を任せます。聖ヨハネ騎士団はコンスエグラ城をその本部としました。この騎士団は、本来は聖地エルサレムで遠方からの巡礼者のお世話をする病院騎士団でしたが、十字軍の遠征により軍事騎士団になったのでした。その後1212年のナバス・トロサの戦いで、イスラム教国をラ・マンチャ地方から追い出すことで安定期を迎えます。

ところが、後年に起きた1813年のナポレオン戦争により、コンスエグラ城は大部分を破壊されてしまいます。その後1830年代における当時の首相メンディサバルの永代所有財産解放令により、城は聖ヨハネ騎士団から取り上げられ、民間に払い下げられました。やがて1962年にコンスエグラ市役所が城、風車を含めたカルデリコの丘全体を買い取り、修復し、スペインの文化財として1980年半ばから内部の見学を可能にし、現在に至っています。

中世祭り
毎年8月半ばの週末に中世祭りを開催し、ムラービト朝との戦いで破れたディエゴ・ロドリゲスの死を追悼している
中世祭りの参加者。コンスエグラ場で見張るカステーリャ王国の兵士たちを演じている
王国と激突したイスラム教国の衣装を身にまとう人たち

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