講演「フラメンコとアヴァンギャルド 過去と現在」
2018年12月04日
フラメンコは一言で「スペインの芸能文化」と表記できるとはいえ、実際には、カトリック圏外から流布したアラブや東洋の楽曲、イベリア半島各地の土着の民謡など、異民族・異文化の多彩な要素が融合しながら培われてきた音楽文化です。黎明期は14世紀後半頃、スペイン南部アンダルシア地方に流れ着いたヒターノ(ジプシー)たちが定住先の民謡形式も取り入れて自分たちの家族や民族の歌を作り出しました。このことは良く知られており、フラメンコは踊り(バイレ)ではなく歌(カンテ)から始まる、ということはスペイン文化に馴染みのある方ならすでにご存知でしょう。しかしここでフラメンコを「ヒターノから生まれたスペイン南部の音楽文化」と簡単に定義してしまうと、取りこぼしてしまう側面があるかもしれません。なぜなら誕生から現代に至るまで、フラメンコは他ジャンルの音楽にも接触しながら、変化と改革を繰り返してきたからです。
2018年11月8日(木)に acueducto 編集スタッフが参加した、京都大学こころの未来研究センター主催「フラメンコとアヴァンギャルド 過去と現在」は、そんなフラメンコのルーツや多様性、発展可能性を巡る講演会でした。講師は現代音楽作曲家のミゲル・アルバレス・フェルナンデスさん。RNE(スペイン国営ラジオ放送)で「アルス・ソノラ」という番組のパーソナリティもされています。
講演は、上記で触れたフラメンコの定義の困難性から始まりました。確かにスペインの芸能文化ではある。けれども、アンダルシアの他地域にも土着の音楽形式(アラゴンのホタや、カタルーニャのサルダナなど)が現存しているし、エストレマドゥーラやムルシアにも、アンダルシアのフラメンコと類似した音楽文化が見受けられる。このため、「フラメンコはスペインの文化遺産」と記述したとき、実際にはその内面はとても複雑で、同じ楽曲でも地域によって差異が見られる。このことは、広大なイベリア半島の文化の多様性そのものを伝えてくれていると思います。「これはアンダルシアの文化!」「スペイン北部はフラメンコと無縁!」と極端な線引きをしてしまうと、むしろこの芸能の中に内包されている地理的な多様性を見落としてしまうことになるかもしれません。
そしてフラメンコの起源に関わる話。大きく4つの文化圏からの影響を挙げていました。1つは、8~15世紀、800年近くイベリア半島を支配していたアラブの音楽文化。また1つは、フラメンコの原始的な形式を作ったヒターノたち。そしてあまり知られていないですが、ユダヤ音楽からの影響。シナゴーグで歌われていた合唱曲などです。フラメンコにグレゴリオ聖歌からの影響がある、ということは聞いたことがありますがユダヤ音楽からの影響もあったのですね。最後に、クラシック音楽からの影響。例えばファンダンゴは、クラシック音楽由来の楽曲であるとのことです。ここからフラメンコの総体は、様々な文化の融合であって、特定文化の単一継承ではないことがわかります。
ヒターノたちの家族の歌
先ほど様々な文化圏からの影響について書きましたが、フラメンコの原型の大部分にヒターノたちの歌があることは確かです。講演では「ピニーニ一家」というヒターノの1家族が歌うフラメンコビデオを見せてくださいました。
彼らにとってこの音楽は見世物(ショー)ではなく、親から子へと受け継がれていく家族のための歌。だから歌詞も家庭によって多種多様ですし、一家の間で形成されるものですから、即興やアレンジも当たり前(家庭料理が良い喩えでしょうか?)。「オレー!」というおなじみのハレオ(声援)も、元々は同じ家族の一員である歌い手や踊り手に呼びかける親しみのこもった掛声でした(「オレー olé」はアラビア語起源説(「神よ!」)があります。ヒターノたちもアラビア語から影響を受けていたのかもしれません)。私はここまでの話を聞いて、昨年観たフラメンコ映画『サクロモンテの丘』を思い出しました。あの映画でも、ヒターノの暮らしや家族の絆に焦点が置かれていました。ヒターノの子どもたちにとっては、生まれた時から当たり前のようにフラメンコの音楽が身近に存在し、彼らはお互いを鼓舞して家族や近隣の者たち皆で生きていくために、踊り、歌い、手拍子をしていました。狭い舞台に並べられた椅子に座り、家族が順々に踊りを披露していくシーンを観て、「フラメンコは第三者に見せるためのものではなく、自分自身と大切な人が生きていくための音楽だったのか」と思ったものでした。
ミゲルさんの話では、ヒターノの家族の文化とは言えども、「payos」と呼ばれる非ヒターノの人たちも歌や踊りに参加することがあったそうです。「ヒターノたちのフラメンコ」と言ったとき、それはヒターノに限らず、貧困層や社会に疎外されている人たちが歌う慰めの音楽だったとのこと。ところが時が経って1960年以降から、フラメンコ文化はヒターノのみに帰属するという排他的な「フラメンコ純粋論」が登場したそう。「確かに起源はヒターノにあるが、昔はもっと自由で開かれていた」と講演で仰っていたのが印象的でした。
カフェ・カンタンテとアヴァンギャルド
さてここまでヒターノの話が中心でしたが、次にミゲルさんは19世紀末以降のフラメンコの傾向を解説してくださいました。見世物としての歴史の始まりです。フラメンコをあまり知らない人たちがまず思い浮かべる「舞台上で、派手な化粧と赤や黒の華やかな衣装を着た踊り手が登場する」イメージが作られ始める時期です。19世紀末からということなので、芸能としてのスタートは意外と歴史が新しいですね。この時代、セビーリャやマドリード、そしてバルセロナなどの大都市で「カフェ・カンタンテ」というアンダルシア文化を楽しむための大衆酒場が流行るようになります。タブラオの原型と言えるでしょうか。家族や仲間同士で楽しむ音楽から、お客様に見せる音楽に変わったわけですから、当然ながら様々なルールが設けられるようになります。こうして公の場で披露されていくにつれ、フラメンコは様式や審美性などが発達していき、この世界のプロと呼ばれる人たちが登場するようになります。特に歌は、この時期にかなり形式化が進んだそうです。裏返すと、カフェ・カンタンテなどの大衆の舞台が発展する以前のフラメンコは定型化が進んでおらず、もっと自由に奏でられていたということですね。定型から外れた例として、マヌエル・カガンチョのシギリージャのビデオを紹介していただきました。
とてもアルカイックで、とても自由に歌うシギリージャ。彼は19世紀中頃に生まれた有名な歌い手(カンタオール)ですが、その少し後、19世紀後期に録音装置が発明されました。このビデオの歌は装置の発明後まもなく録音されているものです。ミゲルさんの話ではマヌエル・カガンチョは「新しい技術に挑戦する」フラメンコアーティストの1人であり、現代で言えば後述のイスラエル・ガルバンと同じ類型に当てはまるとのこと。歴史的な新発明を大胆にもフラメンコに導入する型破りな挑戦は、今に始まったことではないということですね。
フラメンコは19世紀末~20世紀前半に発展した前衛芸術運動(キュビスムやシュルレアリスムなど)からの影響も受け、同時代のフラメンコのパフォーマンスも一部は王道から逸れて前衛的な道を歩んでいたそうです。異端の歴史、と講演では評されていました。例えばマヌエル・ファリャが作曲した《恋は魔術師》(1915)。バレエ音楽として有名ですがここではフラメンコのそうした変革的な作品として紹介されていました。
踊りの分野で前衛的な人物として挙げられたのはヴィチェンテ・エスクデロ。未来派の流れを受けてモーター音を聴きながらフラメンコを踊るという挑戦的なパフォーマンスを行った人。フラメンコと機械技術の組み合わせです。イスラエル・ガルバンも影響を受けたダンサーとのことですがそれも納得の足さばきです。このビデオがすごく面白い。
そして非常に重要な人物として、特に強調して挙げられていたのがヴァル・デル・オマル(Val del Omar)。写真や実験映画分野の芸術家で、cinemista(神秘主義的な映像家)だったとのこと。ルイス・ブニュエルと同じく前衛的な映像作品を残しています。講演では『グラナダの水鏡 Aguaespejo granadino』という1955年の作品の1部を見せていただきました。なお、この実験映画の音楽はファリャが担当しています。
ヴァル・デル・オマルは私もこの講演で聞くまで知らなかった人物なのですが、後日この実験映画と同シリーズと思われる『Aguaespejo』というビデオの全編を見てみました。そこには非常に怪しく、不安定で、不穏なグラナダの世界が映されていました。不安、あるいは恍惚としたヒターノたちの表情と、序盤からこだまする「神」や「神秘」という言葉。その半ばで段々と響きだすフラメンコの拍子。点滅した空の下のシエラネバダ山脈、イスラム文化の歴史と衰退を刻むアルハンブラ宮殿のカリグラフィーや美しい中庭、絶えず響く不気味な音楽。そして湧き出す水、流れ落ちる水、噴水、水鏡……と、水のイメージが何度も反復されていました。ところで「水に傷ついた子供のカシーダ」のように、ガルシア・ロルカもグラナダと水についての詩を描いています。ヴァル・デル・オマルは、深く探ればもっと面白いに違いないと思った前衛芸術家でした。
独裁政権下でのフラメンコ
前衛芸術運動の時代(20世紀初頭)は、「銀の時代 Edad de Prata」とも呼ばれていました。先に挙げたような優れた芸術家たち(ロルカ、ファリャ、ブニュエル、そしてヴァル・デル・オマルなど)はマドリードの学生寮で互いに知り合い、交流し、文化活動が活発に行われていました。フラメンコの実験芸術も作られていたわけですが、こうした活動は、20世紀前半に起きた重大事件により中断してしまいます。スペイン内戦の勃発です。内戦に勝利して覇権を握ったフランコは、フラメンコの「王道から逸脱する」前衛的な部分には興味がありません。自国スペインの民衆をまとめるための民族文化(フォルクローレ)として、プロパガンダに利用することに決めたのです。このため独裁政権下でのフラメンコは、非常に制限的なものになります。歌の形式は「コプラ」ばかりに集中していたそうです。そしてこの時代のフラメンコはスペインの国外宣伝を兼ねており、映画でフラメンコを歌うアーティストも登場しました。代表者は、国民的カンタオーラとして絶大な人気を誇ったロラ・フローレス。ミゲルさんの話では、こうした映画の中のフラメンコは非常に宗教的・政治宣伝的な性格であるとのことでした。
70年代以降のフラメンコ
内戦によって開放的な前衛芸術の水脈が断たれ、フラメンコは硬直してしまったわけですが、50年代生まれのアーティストたちによって、70年代から前衛的な伝統を復活させる運動が始まったとのことです。まず例として示していただいたのは伝説的カンタオールのカマロン・デ・イスラと同じく伝説的ギター奏者パコ・デ・ルシアのデュエット。フラメンコ愛好家の方なら彼らの歌と演奏を聞いたことが一度はあるはず。70年代は国外の新しい要素を取り入れることでフランコ政権下の制限的な定型から脱し、フラメンコ音楽界の再活性化が始まりました。アメリカのロックやフュージョンの影響を受けて、この時代にロック・アンダルス(アンダルシアン・ロック)という新ジャンルが登場しました。ロックの影響の入ったフラメンコの例として、ラス・グレカスというアルゼンチン出身の姉妹バンドを紹介していただきました。1974年の曲。今聴いてもなかなか新鮮。
講演では触れていませんでしたがフラメンコのパーカッションとしておなじみのカホンも、パコ・デ・ルシアがペルーで発見してフラメンコに導入した楽器です。この時代は国外からの音楽や楽器の影響が大きく、今に繋がる、日本でもよく知られているフラメンコの形式が出来ていくとともに、フラメンコ自体がグローバル化していきます。またスペイン国内でも1978年にスペイン国立バレエ団が設立され、同年スペイン憲法が成立。独裁政権が終わり民主主義の時代が始まります。70年代はフラメンコにとってもスペインの社会全体にとっても重要な時代だったということがわかりますね。
さて、フラメンコが日本を含め世界に広まるにつれて、文化遺産としてこの芸術を保護しようとする動きも生まれます。フラメンコのインスティトゥートも設立され、スペイン固有の芸能文化としてきっちりとした定型化が進んだそうです。2010年にはユネスコの無形文化遺産にも登録されましたね。しかしながら、ミゲルさんは文化遺産になることは「進化がストップする」ということでもあると仰っていました。伝統を保護しようとすることと、前衛的・革命的なものに挑戦しようとすることは相反します。そして、フラメンコは絶えず変化するものだ、と強調されていました。講演によれば2011年以降から昔の前衛芸術家たちのような、革新的なアーティストたちが出てきたとのこと。その代表がイスラエル・ガルバンです。彼は型破りの現代フラメンコアーティストとして非常に有名。実は2019年2月に「自分のAIと競演する」という新作を山口県で披露するのですが、これはまさに機械技術と芸術を融合させた前衛芸術家たちの後継者!
革新的な気鋭アーティストはガルバンだけではありません。もう1人、ニーニョ・デ・エルチェを最後に紹介してくださいました。画家フランシス・ベーコンについて歌うビデオ。舞台はマドリードの「Casa Patas」という古典的なフラメンコシアター。
以上が、2時間の講演でお聞きした内容でした。とても豊富な内容で勉強になった点も多々あり講演後に個人的な質問にも気さくに対応してくださった講師のミゲルさん。「フラメンコは時代とともに変化する芸術。けれども現代においてなお、保守的な愛好家グループの意見がある」とコメントをされていました。最近では、フラメンコの楽曲形式を自身の音楽に導入したポップアーティスト、カタルーニャ出身のRosalíaがスペイン音楽界を大変賑わせていますが、フラメンコと彼女の関係を巡る賛否両論もまた、この文化への各々の見方の裏返しとも読み取れるかもしれません。アンダルシア生まれの伝統芸能としての魅力も大いにあるフラメンコですが、一方で「変化を繰り返してきたもの」であるという側面も意識するとさらに見識が広がるな、と思えた機会となりました。
講師のミゲル・アルバレス・フェルナンデスさんと、講演に参加したスタッフ(宮田)