ピカソ:スペインに愛され、憎まれた画家

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パブロ・ピカソは、スペインとフランスを生きた画家です。スペイン内戦勃発直前の1934年、フランス・パリへと逃れた彼は、「フランコが倒れるまではスペインには戻らない」と宣言してガリアの地で暮らし、以降、公式にはスペインに帰ることはありませんでした。内戦で歪むスペインを焼き付けたモノクロの巨大画《ゲルニカ》(1937)は、パリで制作されたものでしたね(個人的には、この絵は、もっとも生で鑑賞するべき作品だと思います)。フランコにとって彼は芸術作品を介して政権を糾弾する厄介者。しかしその一方で、ピカソはその偉大な功績により、スペインのプロパガンダにぜひとも利用したい人物でもあったのです。ピカソの政治利用について、『エル・エスパニョール』が2019年4月11日付で記事を出しました:「ピカソがフランコを「フッた」時──応えられなかった愛の話」

Cuando Picasso le ‘hizo la cobra’ a Franco: historia de un amor no correspondido

“Picasso, marxista, militante del Partido Comunista español, antipatriota proxeneta, homosexual, pornógrafo e hijo ilegítimo (…) si es necesario otro 18 de julio para salvar a España estamos dispuestos a ello con todas sus consecuencias, luchando contra los enemigos del interior y exterior, y muy principalmente contra los traidores que al igual que las prostitutas coquetean con el enemigo para poder salvar la carroña y ponzoña en que se han metido”.

時は1971年。アンダルシアの海岸都市マラガ生まれの画家は、90歳の誕生日をフランスで迎えました。この時、ルーヴル美術館は彼の誕生日を記念して大々的な回顧展を開きます。存命の画家のためにルーヴルが大ギャラリーの占有を許したのは初めてのことでした。フランスにおいても20世紀でもっとも偉大な画家として名を馳せるようになった画家。そこでフランコは、ピカソを自らが統率するスペインのために政治利用しようと画策します。国外脱出を余儀なくされて、止むを得ずフランスの地に逃れた画家を「国際的スペイン人 español universal」と讃え、王立サン・フェルナンド美術アカデミーの名誉会員に登録し、彼の肖像画が描かれた記念公式切手を発行し、彼の名前を冠した若手芸術家たちのコンクールを開くなど、その知名度を利用してやりたい放題でした。しかし……ピカソはスペイン内戦の災厄を怒り描いた《ゲルニカ》の作者です。さらに彼は、1944年にフランス共産党に入党しています。対極の政治的立場にいる有名人を利用することに対して、自己矛盾、あるいは滑稽であるという自認は政権内部でもあったでしょう。

特に、政権側にとって目の上のたんこぶだったのは、1937年に制作されたカリカチュア《フランコの夢と嘘》でした。豚にまたがるなど、フランコ将軍をいくつかのバリエーションで醜悪な姿で描き、スペインを押し潰す政権の暴力を漫画のような風刺画で表現。だから名指しで、はっきりと政権のトップを弾劾し、そのトップが倒れるまでは帰国しないと公言した人物をプロパガンダに利用するなんて、普通では考えられないことです。これに関して美術史の専門家ナディア・エルナンデス・ヘンチェ氏は次のように説明。「1950年代から、情勢が変わっていきました。ピカソの国際的成功を無視することはもはやできないと悟る知識人たちが、政府の中にもいたのです。だからピカソの「個人 persona」と「芸術家 artista」を分けて考えるという策が取られるようになったのです」。エルナンデス氏は2019年に Picasso en el punto de mira(標的となったピカソ)という本を出版しています。この著の中では、極右のピカソに対する暴力的な排斥運動、そのほか、フランコ体制後期の文化活動に対する妨害について解説されているそうです。

「完全に、フランコ政権はピカソを自分のために利用しようとしていました。画家の思想をも対外的なスペインのイメージを良くするために利用しようとしたのです。そして、これはやや馬鹿げた状況でもありました。というのも、1960年代、ピカソはすでにヨーロッパの最大の画家として認識されていましたが、一方でスペイン内部では、ピカソ「その人」についてはほとんど知られていなかったのです。画家への野望と不理解によって、ピカソとスペインは非常にややこしい関係となっていました」

そしてとうとう、スペイン(フランコ)からの愛(愛?)に画家が応えることはありませんでした。ルーヴル美術館での回顧展から2年後の1973年、ピカソは「フランコが倒れるまでスペインには帰らない」という約束を頑なに守ったまま、92歳でその生涯を閉じました。

「けれども、自分の作品が変化することはないだろう、なんてことをピカソは決して言いませんでした」とエルナンデス氏は含みをもたせて言います。画家ダリもまた、このように言っていたそうです:「ピカソは共産主義者だ。そして私もまた、そうではない」。つまり、画家自身がはっきりと共産主義の政治的立場を示した人間であるかというと、そうとは言い切れない部分もあるようですね。

フランスのルーヴル美術館での回顧展を眼前にして、スペイン側でもピカソの90歳の誕生日を祝う動きがありました。主に大学を会場として、ピカソに関する講演、作品展、記念冊子の発行などが執り行われましたが、これらはすべて至近距離でスペイン警察が睨みを効かせる状況下での開催でした。マドリード自治大学の科学部ではイベントが強制的に中断されました。ピカソに触発された学生たちが「ピカソ!」「自由を!」というスローガンを掲げて行進したからです。

さらにスペイン内部ではピカソを巡っての事件が続きました。画家の誕生日から3日後、この日はファランヘ党の記念日でもあったのですが、マドリードでピカソの排斥運動(アンチ・ピカソ)が始まりました。「アントニオ・マチャード」をはじめとするいくつかの書店が襲撃され、ショーウィンドウのガラスを割られ、本棚やカウンターには大量の赤インクをぶちまけられるなどの蛮行を被りました。また数日後、今度は同じアンチグループがギャラリー・テオを遅い、ピカソのかの有名なエッチングの連作《ヴォラール・シリーズ》に酸をかけ、ナイフで切りつけ、額縁を棍棒で叩いて破壊しました。こうして、ピカソの名前が政治利用された結果、芸術家の貴重な作品そのものが攻撃されてしまうという事態に陥ったのです。

一方のバルセロナのピカソ美術館。マドリードでの襲撃事件のニュースが届く前に、すでに警備を強化していました。暴徒たちの最大の標的になる予測が立てられていたからです。美術館への侵入に失敗した暴徒たちは11月21日〜22日にかけて、4本の火炎瓶をピカソの芸術作品が展示されているギャラリーに投げ入れ、これによって火災が発生し、建物とそこで展示されていた絵画が燃えてしまいました。2日後、急進化した暴徒は書店「Cinc d’Oros」に火炎瓶を投げ、展示されていたピカソに関する資料の全てを灰に変えてしまいました。

この連発する暴力行為に対して、フランコ体制側はどのような措置を取ったのでしょうか。エルナンデス氏は言います。「いくつかの反対や批難の声はありましたが、政府は不関与と無関心を貫きました。組織の中でも超保守的だったブラス・ピニャールのように、この蛮行を賞賛している者までいたのです」。彼女は今年に上梓したばかりの自著で次のように書いています。「ピカソへの敵対行動を表明するのに、暴力に頼る必要はなかったはずだ」。そして、これらの行為は1976年(フランコ没後、民主化したばかりのスペイン)の攻撃的な反文化運動へと繋がる序章になったと述べています。

ピカソ本人にも、祖国で起こった出来事の全てはその耳に届いていました。画家自身の反応は……「ラファエル・アルベルティ、あるいは別の友人の証言によると、ピカソは自作品に対してそこまで深刻に思っていなかった」と、エルナンデス氏。「ピカソは襲撃に対してある時こう言いました。『これはニュースなんかではない。もしプラド美術館が燃えたらそれはニュースだが』。けれども実際のところ、画家はスペインで起きていることを注意深く見つめ、例えば、スペイン政府からの代表団を受け入れないなど、彼は彼なりのやり方で行動していました。ピカソはとても賢い人物で、バルセロナで自作品を守るためにはどうすれば良いか、努力をしていました」。

スペインの対外・対内のプロパガンダに巻き込まれた画家ピカソ。自らの発言力の大きさも計算した上で、上記のような、自作品へのそっけないコメントを出さざるを得なかったのかもしれません。けれども帰れない祖国に残してきた作品が同胞の手によって傷つけられ、彼自身がどれほど苦悩したことでしょうか。ピカソはスペインを代表する画家、しかしその言葉の中には、単純に両者の関係を称賛することの難しい政治的な内情があったのですね。

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