ピカソの妻オルガ・コクローヴァの肖像

記事関連

 

あまたの女性と浮名を流したパブロ・ピカソ(1881〜1973)。彼の作品を鑑賞するにあたり、恋人たちとのロマンスを無視することはできないでしょう。ピカソにとって女性は自身の芸術活動の重要な源泉でありました。彼が愛した女性の中で、特に重要とされている人物は7人います。貧乏画家時代、パリで出会った人妻フェルナンドゥ・オリヴィエ、病弱の女性エヴァ・グエル、ピカソと初めて結婚したオルガ・コクローヴァ、17歳で45歳の画家と恋に落ちたマリー=テレーズ・ヴァルター、《ゲルニカ》制作の現場にいた写真家ドラ・マール、自らピカソの元から去ったフランソワーズ・ジロー、晩年のピカソを支えたジャクリーヌ・ロック。

この中で3番目の女性オルガはロシアの上流階級出身の女性で、19歳から興行師セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスのダンサーとして活躍していました。ピカソと彼女が出会ったのは1917年のパリ。この年、ディアギレフ一団のバレエ劇《パラード》の初演がこの街のシャトレ劇場で行われましたが、この《パラード》はピカソの友人ジャン・コクトーが台本を手がけており、その縁で衣装と舞台装置をピカソが担うことになりました。こうして、ロシアの美しいダンサーとマラガ出身の気鋭の画家は、パリを出発点に愛を育みます。

 

★ディアギレフのバレエ・リュスや《パラード》に関しては、ぜひピアニスト・下山静香さんの連載「音楽の時間」をご覧ください。

「バレエ・リュス」とスペイン その1

 

さて、このオルガを巡っては「上流階級の女性で、頑固で、ボヘミアンスタイルで自由に暮らしていたピカソに窮屈なブルジョワ生活を強いた」という、どちらかというと批判的な評価が一般的かと思います。またその次の恋人がうら若きマリー・テレーズだったこと、そしてピカソからの愛が冷めても生涯にわたって離婚を拒んだことから「執念深い女性」という像が形成されがちなのがオルガ。しかし今年、そんな彼女をテーマとしたピカソ作品の展覧会「オルガ=ピカソ」が、画家の故郷マラガの美術館で開催されました。会期は2019年2月26日から6月2日まで。

 

Exposiciones | Museo Picasso Málaga

No Description

 

今、改めて見つめ直すオルガという1人の女性。本展覧会の開催にあたりスペインメディアのインタビューで、ピカソとオルガの孫ベルナール・ルイス=ピカソが祖父母について語っています。実は、子供の頃のベルナール氏にとって、父方の祖母オルガの存在は謎に包まれていました。ピカソの息子パウロは、母オルガについて口を閉ざしていました。曰く、パウロにとって母の思い出は「とても悲しく」その生活は「精神的苦痛を与えるものだった」とのこと。ベルナール氏はいつしか「自分の祖母は母方だけだと思うようになった」そうです。

ところが、ベルナール氏はベールに包まれた祖母に接近する手がかりを近年になって発見しました。それは父パウロがオルガから継承したトランクで、ピカソが1930年に購入した邸宅、フランスはノルマンディー地方のボワジュルー城で見つかりました。そのトランクに詰められていたのは、ピカソとオルガの家族の記憶が収められた、数々の貴重な遺品。例えば、1919年から1933年にわたって書かれた600点以上の書簡、これらはロシアの家族や親戚がオルガに宛てて送ったものでした。ベルナール氏は祖母のルーツを探究するため、これらのロシア語で書かれた資料をフランス語に翻訳する決意をしたといいます。

他にも、大量の写真、バレエのシュシュやシューズ、十字架や聖書など、オルガの人となりを明かす貴重な遺品が納められていました。さらにボワジュルー城からは、ピカソが撮った未公開フィルムも発見されました。1931年の春に撮影されたスーパー8mmの3つのフィルムで、そこにはオルガと息子パウロ、飼っていたフォックステリアのボブと共に映るピカソの姿がありました。その光景は家族愛に包まれ、これ以上にこの家族の真実を証明する資料はないとも言えるほど。ベルナール氏と彼の妻クリスティーヌは「ロシアの家族がどんな人だったのかを教えてくれるこれらの資料がトランクから見つかったのは、夢のようだった」と明かしています。

ここで発見された資料の調査・解析が進み、2017年、パリのピカソ美術館で今回のマラガと同じ企画展「オルガ=ピカソ」が開催されました。現在のマラガでの開催後は、マドリードへも巡回予定です。この展覧会では350点の作品や資料が出展されています。

 

 

上で書いたように、オルガの人物像についてはこれまで良く描かれていませんでした。情け容赦なく、ピカソも彼の絵画形式そのものもブルジョワ化したのがオルガだという批判は、当時のピカソ周辺の芸術家たち(カーンワイラー、ブラック、グリスなど)からも挙がっていました。オルガは画家から自由を奪い、友人たちを遠ざけ、画商を変えさせ、放蕩で過剰な生活をさせたのだ……と。

しかし、このような評価をベルナール氏は真っ向から否定します。「そんなことは絶対にありえない。1人の婦人が、愛した男をすっかり変えることができると思いますか? 私はそうは思いません。オルガへのこうした批判は不当なものです。ピカソがノルマンディーに城を買ったのは、ブルジョワで貴族趣味な生活をするためではありません。そうではなくて、1人の画家が城を購入できるまでに大成したと証明したかったからです」

ピカソとオルガの仲は実際どのようなものだったのでしょうか。フランソワーズ・ジローや、ピカソとオルガの娘マリーナは、ピカソについて「サディスティックで野蛮な怪物」とその人となりを酷評。ジローの本『ピカソとの生活』では画家はオルガを苦しめることを楽しんでいた、彼女の髪の毛を掴んで床に引きずっていた、などと書かれています。それでもジローによるなら、オルガは決してピカソとの離婚を望んでいませんでした。彼女はすべてを犠牲にしてでもピカソ夫人に留まろうとしました。1918年、彼女は画家にこのような書簡を送っています:「私はあなたをこれほど愛しているのに、あなたは決して私を愛してはくれないのでしょう。人は生涯において唯一、本当の恋に落ちますが、もうあなたは落ちてしまったのね。こうなったのは私の不幸のせいです。私がどれほど苦しんでいるか、あなたにはわからないでしょう。もう平静になることもできないし、涙も枯れました。あなたを愛しているから、私は不幸なのです」。苦しい恋に身を焦がすオルガは、ピカソを愛し過ぎていたがゆえに、たしかに執念深い女性ではありました。別居後も何度も画家やその家族に書簡を送り続けていますが、孫のベルナール氏曰く彼女は「狂ったのではなく絶望していました」。

2人の恋が始まってまもない頃、ピカソはソファに腰掛けたオルガの肖像を描いています。その表情は憂鬱で、悲しく、冷たい印象を与えるものですが、1931年春のフィルムに収められたオルガは人懐っこく、笑顔に満ち、リラックスして、息子やピカソと戯れていました。フィルムは、まるで別人のような彼女の両面性を伝えてくれているとベルナール氏は語ります。そして、祖父ピカソについては「変わったお爺さんでした」「何でも自分が中心の人だった。芸術家は100人中100人がそうですが」とのこと。

一方のピカソはよく「オルガは俺に求めすぎる」とぼやいていたそうです。オルガと共に過ごした時期の彼の芸術創作は「オルガの時代」または「新古典主義の時代」と云われますが、ベルナール氏に言わせるなら「ピカソに新古典主義は何も認められない。いつも現代的で、同時代的でした」。そしてこの展覧会では、これまで過小評価されてきた「オルガの時代」がいかにピカソの画家としての生涯のキャリアにおいて重要な位置を占めていたかを訴えています。ピカソの様式は時代ごとに目まぐるしく変わっていきましたが、青の時代、バラ色の時代、キュビスム……の変遷を経て、古美術やイタリア・ルネッサンスへの回顧の時代が始まります。この1920年代のピカソをして「ピカソは死んだ。終わりだ」と噂されていたそうで、そうさせた「殺人犯」こそオルガだと見なされていました。今回の展覧会はこうした不当な評価を覆すための重要な機会。「オルガの時代」の再評価が現代において始まっています。

 

オルガとマリー=テレーズの肖像、獰猛な牡牛

展覧会「オルガ=ピカソ」には画家の恋と人生に接近できる興味深い作品が多数出品されています。オルガは当初、憂いを帯びたメランコリックな女性の肖像として描かれていました。やがて時が経つと共に、その肖像はギザギザの歯を持つ怪物ような姿へと変わっていきます。ピカソがミノタウロス=闘牛(ミノタウロマキア)をテーマに没頭していく1930年代の時代にも、オルガの顔は表れます。この時期、ピカソは頻繁に自身を牡牛になぞらえて描いていましたが、その牡牛に打ちのめされる馬の中には、オルガの顔をしたものがいます。また、1931年12月25日には《赤い肘掛け椅子に座る女》という絵画を制作。その絵のモデルの身体は、当時の恋人マリー=テレーズではありますが、その顔は打ち消され、代わりに心臓が描かれていました。幸せな家族フィルムが撮られたのも同じ年でしたが、オルガはこの時からすでに新恋人の存在を知っていたのです。しかも同日にピカソは《短剣を持つ女》という絵画を制作し、主題は「マラーの死」としつつも、そこではあたかもマリー=テレーズを刺し殺すオルガのような人物を描いていました。この絵についてベルナール氏は「ピカソはいつも妻(オルガ)と息子の問題に苦悩していました。この絵が言いたいのは『俺は自分の家庭を壊した、そしてそれをここに表現した』」であると解説。ピカソは人生そのものを自らの芸術で表現したと云われていますが、ぐちゃぐちゃに混ざり合う絵具のように波乱万丈ですね……。

2人の女性の間で揺れ続ける画家は、1936年にも自分の個人的生と恋愛に関する絵画を制作。それは、ピカソ=ミノタウロスが、自らの犠牲になった3頭の動物の死骸を手押し車で引いているという作品。その動物たちは、オルガ、マリー=テレーズ、そして息子パウロ。ピカソはいつも獰猛で飢えている、欲望の塊のような己をミノタウロスの化身として描いたのでした。

こうして表象される暴力性からピカソがマッチョな人間だと捉えられることもあるのですが、「ピカソは偉大なフェミニストだった」とは孫のベルナール氏の言葉。決して女性たちの心を蔑ろにしていた訳ではない。ただ、何も隠さない代わりに、どんな恋にも責任を取らなかった、という恋愛観の持ち主だったのです。単にピカソが傍若無人であったとか、単に女性たちが不幸の人であったとか、そうした一元的な立ち位置では語りきれない複雑な愛と悲哀が、画家の作品と彼らの残した遺品から読み解いていけそうですね。オルガの再評価がひいてはピカソの作品全体の再評価へと繋がるでしょう。

 

参考記事:

“Picasso fue un gran feminista”

Bernard Ruiz-Picasso, nieto del artista, evoca a su abuela Olga, a quien se dedica una gran exposición en Málaga

VOLVER

PAGE TOP